\ナナメに切り取れ/

好きなことを書くよ。

ヒロアカオタクが語る悩み

ここだけの話(?)だが私はクソヒロアカオタクである。

アニメ1~5期は通して40回は視聴した。

原作はもちろんスピンオフ、グッズも集めて、オタクになってからあったイベントは軒並み出席している。

 

ヒロアカオタクの歴は長くないが、熱量は相当なものを持っていたと思う。

とくにここ数週間の本誌の勢いは熱い。

それと同時に、時々熱が冷めるのを感じることもある。

どうもこれがヒロアカに熱中しきれない原因でもあると感じるので、

それを言語化してまとめておきたいと思った。

 

ただ前提としてヒロアカがどこまでも好きであるということは

変わらないはずである。

 

※この記事にはネタバレが含まれるので、アニメ勢はご注意ください。

 

【お品書き】

ヒロアカの好きな部分

まずはヒロアカの好きな部分を挙げていこう。

そして好きな部分を挙げることで、どうして沼れなくなる瞬間があるのか深堀していきたいと思う。

 

ヒロアカの好きな部分

  • 主人公が陰キャ
  • 憧れの人に認められて自分が変わろうとしていく
  • マンガとは思えないほどすんなり勝利できない
  • キャラクターそれぞれ抱えるものがあり、成長が描かれている
  • キャラクターの描きわけがすごい
  • プロヒがかっこいい など

 

主人公が陰キャ

ヒロアカの好きな部分の1つは主人公が陰キャな所。

ちょっと感情移入しちゃうよね。

ただし、巷では主人公が陰キャだから人気がでないのではないかという説が出回っている模様。

もっとも最近の活躍を見てるともう陰キャとかオタク的な要素もなくなりつつあるので…果たして陰キャだとまだ言えるか微妙である。

 

マンガとは思えないほどすんなり勝利できない

少年漫画というからには、やはり主人公がどんどん強くなって、勝利するストーリーが王道だし、カタルシスが生まれるというもの。

しかし、ヒロアカはマンガとは思えないほど、主人公がすんなり勝利できないのである。

体育祭でやっと活躍が?と思っても優勝できず…

インターンヴィランを倒したのに、なんともすっきりしない展開…などが続く。

ヒロアカの人気が出ない理由はこのカタルシスのなさにあるのではないかと巷で囁かれているのは一理ある。

が、人間生きていると確かにこの主人公デクのように、すっきり勝てないことは多々あり、妙にリアルな点も、他の漫画と違っていて、嫌いではない。

ただ人気が出にくい一因であることは間違いないだろう。

 

キャラクターそれぞれ抱えるものがあり、成長が描かれている

ヒロアカのすごい点は、堀越先生がキャラを描き分けている点だ。

その上で、キャラそれぞれの抱えるものや、成長も描かれている。

「少年漫画ならそういう要素はあるでしょう」という意見もあると思うが、

例えば、その瞬間では明らかにならなかったキャラクターの感情が

のちのちこう思っていたんだとわかるシーンが多々ある。

それも、実際に起きたエピソードから、かなりの時間を経てわかるシーンも多く、こう繋がっていたのかと驚くこともしばしば。

 

上手い具体例を挙げにくいが例えば…

他にも初期からいるクラスメイトも、後半になりどんどん脚光を浴びる機会が増えて、

読み進めると、「ああこの子はこの時、こう感じていたのかも」と思わせるシーンや台詞に度々遭遇するのだ。

 

他にもキャラクター同士が対比して描かれる点も、「ああこういう共通点や違いがあったんだ」と驚かされる

 

例えば…

  • 無個性でヒーローから個性を譲渡されたデクと、無個性でヴィランから個性を受けた青山くん
  • 子どもの頃からオールマイトに憧れていたのに、オールマイトに認められてヒーローになったデクと、AFOに見初められてヴィランになった志村転孤

この皮肉な展開が残酷…でももっと見せてくれと思ってしまう…。

 

プロヒがかっこいい など

これは完全に自分の好みですが、プロヒがかっこいいね。

それだけでなく、色々な背景や課題があり成長し続けるキャラクターがたくさん出てくる+堀越先生の画力が高いので、ハマる人はめちゃくちゃハマる作品だと思われる。

 

ヒロアカの違和感

一方で、この要素があるからヒロアカに違和感を覚えるという部分も多い。

好きなだけに、ヒロアカ熱を維持し続けられない原因がここにあるような気がしてならない。

 

ヒロアカの違和感

  • 作者が描きたい部分だけを描くので背景が伝わり切らない
  • キャラクターが多すぎる
  • 特定のキャラクターだけが贔屓されているように見える
  • 重要な問題は宙ぶらりんのまま
  • 対象年齢がわからない

 

作者が描きたい部分だけを描くので背景が伝わり切らない

ヒロアカの違和感の1つ、大きな問題に思うのは、作者が描きたい部分だけを描くので背景が伝わり切らない点だ。

 

具体的に言えば、ヒロアカで一番人気の爆豪くんは、一見強いというような評価を得ている。

しかし、彼単体でヴィランを撃破したような話は思い出せない。

そういう活躍が描かれぬまま、生徒がいくら「爆豪は強い」といっても、

説得力に欠けるなと感じてしまうのだ。

 

同じように、問題児爆豪くんの話になるが、

彼は初期から性格が悪く、主人公デクに自殺教唆をするなど、

ヒーローにあるまじき人間性である。

しかし、彼の活躍を描く一方で、高い倫理観を求められるヒーローが、こうした素行の悪さを、最高峰ともいわれる優秀な雄英高校の厳しい教師、相澤先生が注意したり、除籍したりといった描写がない。

 

ヒロアカで違和感のある部分

  1. 爆豪の素行の悪さ
  2. それを注意しない教師
  3. 特定の生徒だけを贔屓する教師
  4. 弟子の育成をするといって育成をしてる描写のない師匠
  5. 虐待をしていた男がナンバーワンヒーローになる
  6. 虐待は良くないという前提の上で息子の頭を殴る母親が登場 など

 

ヒロアカは、ヒーローのストーリーであり、ヒーローというからにはある程度規範のある人々が中心となって展開される。

そのため、読者としても、他の漫画と比較して出てくるキャラクターが「善」という前提で読んでいる。

いわば、キャラクターには高い倫理観が求められることになる。

しかし、読み進めるとどうしても爆豪くんの存在は、この世界観で浮いたもののように感じることもある。

「ヒーローなんだから、あるいは、ヒーローの卵なんだから、それってどうなの?」って展開が散見される。

もちろん、ヒーローらしからぬ破天荒なキャラクターだから、爆豪くんはここまで人気が出たと言えなくもないが…そうすると、ここまで大真面目にやってきた舞台の「ヒーロー」という規範が緩いものに見えてしまわないか。

こうした違和感をそのままに、シリアスなストーリーを展開したり、特定のキャラクターだけが活躍するシーンが多い。

 

もっと描いてほしかったシーンの例①

前述した内容と重複するが、作中では爆豪は「強い」「勝利にストイック」という設定がある。

しかし、彼が強いキャラクターだと感じたことはない。

デクの場合、免許取得前に一人でマスキュラーを打ち倒したり、ジェントルを取り押さえたりと活躍している。

でもかっちゃんの場合、強いヴィランに対して一人で勝利したシーンってあったっけ?

全く思い浮かばないのだ。

だから「爆豪は強い!」と言われても、「そうは感じられない」のだ。

爆豪は強いというのなら、授業ではなく、個人でヴィランを倒したという実績を描いてほしい所だ。

 

また、彼は「勝利にストイック」という性格だ。

確かに、勝利にこだわる負けず嫌いな一面などが描かれるが、「勝利するためにストイックな姿勢や努力」という点はほとんど描かれていない。

どちらかというと、彼は才能マンで何でもできてしまうという設定がある。

 

勝利にストイックという設定なら、「才能マン」で片づけずに、

放課後ひたすら自主練に励み、努力でここまでのし上がったキャラクターにすべきだったのではないか。

例えばドラゴンボールベジータのような。

結局「才能マン」だよねで片づけられてしまうから、勝利を得るためにストイックであるという設定に説得力が感じられないのだ。

 

もっと描いてほしかったシーンの例②

私が個人的に気になったのは、オールマイトとデクの関係性だ。

オールマイトは引退後に、弟子の育成に専念すると、デクの母にも誓いを立てた。

感動的なシーンのはずが、その割には師匠としてデクを導くシーンがあまりにも少ない。

誓いのシーンから、インターンを経て、文化祭と季節は流れていくが…文化祭では「こうして二人きりで会うのは久しぶりな気がする」と発言しており、「いやいやもっと師匠として弟子に色々教えてあげてくれよ」という気持ちが残ってしまった。

 

オールマイトは完全無欠のヒーローだが、教育に関しては素人だ。

なので仕方ないことなのかもしれないし、デクにとっては心の支えなので

いるだけでいいのかもしれないが…

長期間トップで君臨していたのなら、フィジカルだけでなく、ヴィランとの戦闘における注意点とか、組手をするとか、なんかこう指導できることはいくらでもあったはず。

初期は、海岸を綺麗にしつつ筋トレをするというシーンがあるが、例えばNARUTOのように新技開発に付き合うなどの方法もとれたはず…。

 

この点がしっかり描かれていないために、急に師弟の関係が薄く感じてしまったのだ。

 

もっと描いてほしかったシーンの例③

堂々と公言すれば、私はオールマイトオタクである。

初期では、メインキャラレベルで登場して、完全無欠のスーパーヒーローとして、強大なヴィランであるAFOに勝利した。

その後の彼は、引退して役割を終えたかのように、出番も減少した。

少年漫画である以上、主人公が活躍して、世代交代として生徒が逞しくなっていくというのは当然である。

しかし、今までメインキャラレベルで登場していたオールマイト

不自然なほどに出番が減るのであれば、もっと活躍できる役割やあるいは、

最良な退場方法を考えてもよかったのではないかと思っている。

師匠として弟子を育てるという課題があるはずだ。

結局オールマイトがここまで生存したのは、予知やデクとの約束である師弟の絆的なシーンのために生かされたのだろうかと考えることがある。

最近の本誌の活躍を見れば、彼がここまで生存してきた理由も納得はできる。

 

彼が久しぶりに活躍するシーンは、「無個性でもヒーローはできるか?」という弟子の問いに対して、答えを提示する重要なシーンだと思っていた。

しかし、最終的には、勝利条件を満たす前に、爆豪の復活というイベントが発生する。

ここまでオールマイトが活躍できるのは夢のようで、とても嬉しかった半面、

彼が最低限の勝利条件を満たして、戦い抜く結末までを観たかったという率直な思いもある。

結局その問いの答えは、「爆豪の復活」というイベントの発生によって、有耶無耶になってしまった。

 

爆豪くんの復活に関しては、編集部の意図もあるだろうが、

人気投票が開催されるタイミングと当ててきて、人気のあるキャラだから露骨に有利な状況が用意されていた。

 

初期では、オールマイトとデクの関係性は物語の軸になると

堀越先生は語っていたため、「無個性でもヒーローになれるのか」という問いに対してオールマイトの回答を楽しみにしていたのだ。

こうした強引にも思える流れの変化が、先生が描きたいシーンだけを描いてるのかなと感じざるを得ず、がっかりした。

こういうシーンの積み重ねが、ヒロアカを応援し続ける熱に水を差しているように思える。

 

キャラクターが多すぎる

ヒロアカは、出てくるキャラクターがとにかく多い。

1年生だけでも40人は出てくるし、それぞれどういう個性があるのか、どういう性格なのか描かれている。

先ほども触れたが、実はこの生徒がこの時、こう感じていて、こういうヒーローを目指してるなど、成長が描かれるのはヒロアカのいい点でもある。

 

しかし、ライトに読んでいる人からすると、キャラクターが多すぎて、

そいつが誰でどんな人でどんな関係性なのか、瞬時に判断することは難しいのではないかと思われる。

 

また、これは少年漫画の楽しみ方として邪道かもしれないが、

仮に「推し」といえるキャラが出ても、主人公クラスでない限り

すぐに退場したり、暫く登場しないといったケースも多い。

最もこれは主人公に焦点を当てているため、当然と言えば当然だし、少年漫画あるあるではあるのだが…

 

例えば大人気漫画「鬼滅の刃」は、メインとなる炭次郎ら3人と、柱が9人、メインとなる鬼はだいたい7人くらいしかいない。

そしてこのキャラクターが常時ページやアニメの画面に居続けるわけではない。

その回ごとにスポットが当たるキャラクターが決められている。

そして、キャラクターが決められていることで、今回はそのキャラが深堀されて、

感情移入したり、そのキャラが好きになったりするわけだ。

 

一方でヒロアカの場合は、

1年生での合同授業となると、生徒だけで40人は出てくる。

堀越先生は、キャラクターの設定を決めたりするのが好きなのだろう。

確かにしっかりした設定があったり、絵も上手くキャラクターも魅力的だ。

しかし、1つのシーンで何名ものキャラクターがいたり、ストーリーの軸から離れたキャラにスポットが当たることもあり、どのキャラクターの心情に感情移入して見ていいのかがわからなくなってしまうのだ。

 

キャラクターが多くても、出番や役割を調整して面白いマンガやアニメだって存在している。

キャラクターがとにかく多くて、長期連載をしてるマンガの代表作に

名探偵コナン」があると思う。

コナンの場合、長期連載で、キャラクターもよく知られている点はあるものの、

キャラクターが多い故、やはりストーリーごとに、出てくるキャラクターはある程度制限されて、話が展開される。

例えば、少年探偵団がメインの回、毛利家がメインの回…といった感じだ。

少年探偵団や小五郎や蘭が居合わせることも多いが、

探偵役を制限したり、少年探偵団の役割を限定させていることも多い。

こうすることで、今回はこのキャラクターがメインなんだと判断して

物語に没入しやすくなるのだ。

 

キャラクター数が多く、多くを描こうとすると

何を伝えたいのかぶれてしまうのではないだろうか。

 

特定のキャラクターだけが贔屓されているように見える

ヒロアカで感じる大きな問題の1つは、特定のキャラクターだけが贔屓されているように見える点もある。

もちろん、主人公やその周辺の重要キャラクターが活躍するのは当たり前だし理解できる。

 

しかし、それにしても違和感の残るケースが多い。

例えば

  • 一人でヴィランを倒した実績もない爆豪が強いと言われる
  • 爆豪復活と同時のタイミングで行われる人気投票
  • ヒロインであるお茶子は中盤以降まで空気のような存在感
  • 梅雨は初期から人気キャラだったのに神野以降露骨に出番が少なくなる
  • 文化祭から突然耳郎の活躍が増加

 

爆豪に関してはメインキャラなので、活躍が増えてもおかしくはないが

女性キャラクターへの焦点の当て方は変化が大きい。

特にヒロインであるお茶子は中盤まで空気のような存在感で、初期の人気は梅雨の方が大きかったように思う。

しかし、そんな梅雨も、神野以降露骨に出番が減り、なぜか馴染みの薄い耳郎が頭角を現すという、なんともリアルなアイドルの凋落を見せられているように感じてしまった。

ここにきて、お茶子が活躍するのは初期からお茶子がヒロインだと決まっていたということで納得できなくもない。

しかし、当初スポットが当たっていた梅雨が露骨なほどモブにまで格下げられたため、

梅雨ちゃんファンでもない私まで、この出番の減りようは「何故だろう」という気持ちがぬぐえなかった。

恐らく、耳郎や葉隠といったキャラクターを活躍させたいがために、出番のあるキャラクターを入れ替えたのだと思われるが…そのあまりに露骨な描き方に、違和感を覚えざるを得なかったのである。

こういう感じで、当初熱を入れて描いていたキャラクターが、堀越先生に何かしたのだろうかと思うほどに、急に出番がなくなり、それまで1クラスメイトレベルのキャラが急に出てくるようになるため、唐突感が強く、感情をどう処理していいのかわからないのだ。

 

ドラえもんでいえば、しずかがヒロインだったのに、急にジャイ子しか出て来なくなるとでも言えばイメージしやすいだろう。

 

重要な問題は宙ぶらりんのまま

これはここまで話した内容とかぶるが、重要な問題は宙ぶらりんで解決しないままなのも気になる。

例えば、ヴィラン連合については、弔、トガ、荼毘など、同情すべき境遇はあれど、本人が犯した罪の重さが大きすぎて、勧善懲悪で判断しきれない。

本誌では、トガと荼毘の話は決着がついたし、個人的には納得できたが、人によっては被害者のケアはどうするのかと、納得いかないという意見も散見された。

加害者側だけが、本懐を遂げたようなラストになってしまっていたからだ。

もちろん、ストーリーの根底には、ヴィランも救済の対象という意図があると思うが、それと同じように被害者をどう救済するのかも描かなくては、ヒーローの物語である以上、説得力に欠けてしまう。

 

同じように、前述した通りヒーローを目指す倫理観の強いキャラクターが大半を占めるはずなのに、かっちゃんのいじめ問題については、かっちゃんが謝罪するまで誰も注意をしてこなかった。

曲がったことが嫌いな切島がその辺について言及するなどのシーンもない。

掘り下げると、話がややこしくなるかもしれないが、ややこしくなるような題材を取り上げておいて、その部分に始末をつけてない点も気になるのだ。

その上で、爆豪に関してはここまで素行が悪いのに、人気投票は常に1位だ。

(もっともこの人気投票は多重投票の結果なので、実情は一切不明である)

爆豪を支持するかどうかは、年齢なども大きく影響しているように思うが、

ヒロアカを単なるエンタメだと思って楽しんでいる層からすれば、納得のいく結果だろう。

しかし、世界観がしっかりした「ヒーローとは何か」と問う作品としてみた時に、

やはり彼の存在は浮いているように感じるし、もっとバランスが取れた扱いにできたのではないかと考える余地もあるかと思う。

結局読者がストーリーの何に重きを置いて、楽しんでいるのかによって、

爆豪が1位であることや、爆豪が活躍するシーンの評価は大きく分かれてしまう。

 

対象年齢がわからない

ヒロアカは少年ジャンプで連載される少年漫画だ。

堀越先生曰く、5歳の少年が楽しく読めるようにと仰っていたが、前述した通り、単純に勧善懲悪で語れない深みのある作品になっている。

連載開始から、自殺教唆や児童虐待といった重い内容があり、主人公もすっきり勝利しない、勧善懲悪とはいえないカタルシスを得にくい作品だ。

堀越先生の人柄や考え方、カラーが出ている深い作品であると評することができる一方で、一体対象年齢は何歳なのかと考えることもしばしば。

初期のポップで夢のあるストーリーから、成長につれて一筋縄ではいかない、「ヒーローや社会の責任」を問う展開に変わっており、作風は大分変ってしまったという印象もある。

アニメに関しても当初は子供向けを想定して週末夕方5時からの放送ではあったが、アニメ6期に至っては全面戦争に入り、どうにもシリアスで重苦しく、身体が欠損するなどの表現もアリ…深夜枠でやった方が人気が出るのではと思った。

いっそのこと、ヤンジャンにでも移籍して深堀した方が、堀越先生の良さが引き出されるのではとすら思えるのだ。

 

ヒロアカオタクの成れの果て

さてここまで現役ヒロアカオタクの私が端々に感じる違和感を話してきた。

ヒロアカは世界観がしっかりしていて、魅力的なキャラクターが多く、熱い展開がある。

最高の作品なのだ。

 

しかし、「うーん…ここまで熱いのに…なんか応援の気力が削がれる…入り込めない」という展開が多々ある。

それには前述してきた理由が関係しているだろう。

さらに付け加えれば、堀越先生の画力が高いが故に、必然的に期待値も高くなってしまうからではないかと思う。

 

2chなどを見ても、「ヒロアカってなぜか盛り上がらない」という話から、度々アンチが登場する流れもある。

そしてそのアンチが異様にヒロアカに詳しかったりするのだ。

 

理由は簡単だ。

結局、期待値が高く応援していた作品だったのに、応援できなくなってしまったオタクが、「今のヒロアカは面白くない」と批判してアンチになる流れができてしまっているからだ。

ヒロインの熱狂的なファンだったから、オタクだったからこそ、「ヒロアカはこうあるべきだった」という気持ちがぬぐえずに、アンチになってしまうのだろうと思う。

もちろん元オタクだからこそ、アンチを称してるのに、異様にヒロアカに詳しいのも頷ける。

 

いやいや、ここまで壮大なストーリーを描いたこともないいち読者が批評するのはいかがなものかと思う。

何も成し遂げてない人ほど、後出しでケチをつけるものだ。

しかし、その気持ちもわかる。

 

大人気漫画の「ONE PIECE」は、正直麦わらの一味が再開する2年後までが面白かったと思っている。

特に、グランドラインに入る前は、死ぬほど神がかっていて、これ以上面白いマンガは生まれるのかと思うほどだった。

しかし、今は絵もごちゃごちゃとして、面白いかどうか以前に読む気も起きない。

神がかり的に面白いマンガだったからこそ、残念な気持ちが拭えないのだ。

もちろん、作者の生活や編集の仕事など、要因は色々あるかもしれないが…

編集がしっかり仕事をすることで、ある程度の質は担保できたのではないかと

素人の癖に感じている。

 

それと同じなのだ。

少年漫画で熱いものを描くなら、もっとシンプルでいいし、

深いマンガを描くなら、青年誌の方がいい。

連載中に色々と変化があり、きっと堀越先生の中で描きたいものも変わっていったのだと思う。

単についていてない連中がアンチになってしまうのだろう。

作者からしたら余計なお世話である。

 

私はヒロアカを死ぬほど好きだけど、

死ぬほど好きだから、単に堀越先生をマンセーするだけでなく、

この部分をどう受け入れていいかわからないという率直な気持ちを

言語化してみた。

 

大好きな作品だからこそ、納得のいく終わり方を期待している。

救えるのは他人に救われる準備がある奴だけ

呪術廻戦で五条悟が言った台詞

 

「俺が救えるのは他人に救われる準備がある奴だけだ」

という台詞をまさにこれと感じる体験があった。

 

もっともこの体験がこの時の五条悟の心情や意図していたものと一緒かはわからないけど…。

 

私にはメンヘラ部下がいる。

彼女は同居してる父親から暴力を振るわれ続けてきたらしく

仕事中でもフラッシュバックを起こして急に泣き出す人だった。

 

これだけでも面倒そうだと感じると思う。

でも自分も似たような家庭環境だったので、まぁしょうがないと思って

見守っていた。

 

メンヘラの特徴なのだけど、

ちょっと親切にすると異常に距離を詰めてくる。

ちょっと親切にすると、=友達くらいの感じで。

 

もっと具体的なエピソードを挙げると

そんなに仲良くない相手のXのアカウントを陰でウォッチしていて、

「私と遊べないと言ったのに、他の人と遊んでる」とか言い出す女なのだ。

 

彼女がチェックしてる相手は、時々会うくらいの仲だ。

恐らく相手も知り合いくらいにしか認識してない。

なのに、ちょっと会話が弾むと、「あの人のことが好き」

「ちょっと仲良しになった」とか言い出す。

 

その相手が彼女の誘いにのらないで

他人と出かけていたことに対して彼女は「ひどい」と言う。

 

普通の人なら

  • まだそんなに親しくなかったのかも
  • 相手にとってはちょっと迷惑だったかも
  • 一緒に行った相手との付き合いもあるよね
  • もっと仲良くなってから誘おう

 

とか考えると思う。

そうじゃない。自分の誘いを断った相手が「悪い」になってしまう。

 

そう、メンヘラは相手に対する期待値が異常に高い。

他人の事情は一切無視で、考えようともせず

すぐ裏切られたと被害者妄想をしてくる。

 

この異常な距離感は、

ジョジョに出てくる山岸由香子のようなもの。

 

この話を聞いた時に私は

「うわぁぁぁめんどくせぇ女」

「そもそも相手からしたら別に仲良くなりたいと思われてないことに気づいてない」

「もし自分が逆の立場で、そんなに仲良くない人にしつこく誘われたら絶対断るくせに」と感じた。

 

話は戻るが、そんな彼女に、私は「親しい人間」だと誤解されてしまった。

 

テレワークが続くと私に会えないことを「寂しい」と言ったり

「友達がいないし、他に頼れる人がいないから引っ越しの作業を手伝ってほしい」とか。

 

いや、普通なのかもしれない。

しかし、私も認知が歪みまくっているので、

彼女の言葉から「友達になってくれ」というのをヒシヒシと感じてしまった。

なんとなく彼女が私の母親のように私に干渉して私をコントロールしてこようとしてるように感じた。

彼女の場合、そういうのを断るとまた泣き出したり

仕事に支障をきたしそうだから面倒だなと感じ

必要最低限以外会話をしないようにした。

 

案の定今度は「お前が悪い」というような攻撃的な言動をしてくるようになった。

「引っ越しの作業を誰にも頼れなかったので、作業が終わってない。今日は有休にします」と言われた。

私が冷たくしているから、今後は誰も頼れない

誰からも必要とされてないと言われた。

 

メンヘラのお家芸「可哀想でしょ私」が始まった。

何としても自分の方を向けたくて仕方ないようだ。

 

ここで無視すればよかったのだが、私は無意味な親切心を発揮してしまった。

 

結局何もかもが「他人のせいで不幸」という考え方をすると

自分の幸せは他人がいないと成り立たないという図式になってしまう。

相手によって自分の幸せが左右されてしまう。

これは依存的な状態だし、幸せは他人によると思っている以上

絶対幸せになんかなれない。

 

よく結婚した後に「相手がモラハラ野郎だった」

「ムカつく」「でも金がないから離婚できない」

「あいつのせいで自分の人生は」っていう人を見かける。

 

これも同じだ。

「あいつのせいで自分の人生は」と思っている以上

あいつが変わらないと自分の人生も変わらない

それだと、自分の人生はあいつによって幸せかどうか決められている

コントロールされている状態になってしまう。

 

私はこの考え方がめちゃくちゃ嫌いだ。

自分の人生を変えていく人たちは、

自分で「傷ついたり」「損をしたり」という代償を払っている。

 

その代償を払わないやつが、文句を言う資格はないと思っている。

上記の例なら、頑張って働いて自立すればいい。

そうしている人はたくさんいる。

生きていけないなら生活保護を取ればいい。

 

愚痴り続けても、不幸自慢をしても人生は変わらない。

その時間が無駄なのだ。

 

私自身も彼女と似たような家庭環境で

親のことを相当恨んだが

結局親は死ぬわけで、そんなものは無意味だと馬鹿らしくなった。

 

でも、人間は正論だけでは動かない。

彼女にそれを伝えたら、

「はいはい。私が悪いんですよね。

努力しろよってことですよね。」というような返答が返ってきた。

 

結局良かれと思っても

「自分が変わりたい」と思ってない人間は

何を言ってもネガティブにとらえて、

「前に進まなくていい理由」を探す。

 

そう。冒頭の話に戻るが「自分で変わろうとしない人間は私にも助けられないし

救えない」んだなと思った。

 

もちろん、機能不全家族のもとで育った人、虐待サバイバーは

他の人より遥かにハンデを背負って社会に出てくる。

身近な他人である親と関係を築けないことで、他人も信用できない。

友達も頼れる人もいない。

 

そういう人たちは、他人との距離感をわかってない。

だから相手に面倒だと思わせたり

利用できると思われたり

メンタルの弱さで勝手に傷つく。

 

本当は傷ついたり、嘆いたり、泣いたり、誰かに受け入れられる時間は絶対に必要だ。

わかりやすい例でいえば、童貞を捨てないと異性とまともに会話できないようなもの。

相手の言葉すべてが悪意ある状態で届くのは、

自分が家族・友人・恋人に受け入れられたことがないからだ。

 

そういう「受け入れられた」時間を経て、

自分で「ああこの時間は無駄だな」「変わりたいな」と思わなければ、

相手の正論など胸に入っては来ない。

 

普通はそういう体験を学生のうちに済ませるもので

友達ができれば変わるのだが

友達もできず、自分を曲げられず、人に好かれる努力ができず

ありのままの自分でないと嫌だと我を通したものだけが、

こういう仕上がりで社会に出てくるのだ。

 

今回私はしたのは、ただ正論という刃で相手を刺したにすぎなかった。

自分がしたことは無意味だった。

一瞬、同じ境遇だから話せばわかると思った自分がバカだった。

 

メンヘラと関わると不幸になるのは事実だ。

相手と心中する気がないのなら、触れない方がいい。

彼女たちは、助けてくれそうと思ったら異常な速度で距離を詰めてくる。

助けなければ、「お前が悪い」と罪悪感を植え付けて相手をコントロールしてくる。

そう、彼女たちがかつて親にされたことを、他人にしてくる。

そういう風にしか他人と関わることを知らないから。

 

彼女たちは「愛されること」「受け入れられること」で必死だ。

他人から受け入れられない自分という事実は世界が終わることを意味する。

自我を保つために、相手が悪いことにする。

一見優しそうに見えても、自分の事情しか考えてない。

相手の事情は見ずに責め立てる。

 

私も同じような家庭環境だったから、当時の自分は必死だったなと思う。

自分が思う自分が崩れてしまわないように、なりふり構わなかった。

昔の自分を見ているようで、「助けたい」と思ったのが間違いだった。

 

カウンセラーは何年も同じクライアントと接して

認知の歪みを矯正していく。

国家資格を持つカウンセラーでさえ、時間をかけて慎重にクライアントと付き合っていく。

素人の私が一夜で他人を変えられると思ったのは思い上がりだった。

 

どんな会社にも一人くらいはメンヘラがいるかもしれない。

でも、学校では、「自分の部下がメンヘラだったらどう接するか」なんて教えてくれない。

未だにどう接するべきなのか悩んでいる。

まともに接したら今度はこっちが壊されるだろう。

 

メンヘラはこうしてまた他人との溝を作って、嫌厭されていく。

2023年はてブロに帰還

超絶どうでもいいけど2023年、はてブロに帰ってきました。

 

はてブロといえば、私がメンヘラACやってた時にもとても役立つブログだった。

 

ブログはだいたい三日坊主。

 

なぜ帰ってきたのかというと、暇だからw

改めて自分の考えをちょっとまとめておきたいなと思ったから。

長続きするといいね。

 

どんな人かはブログを書いていけばきっとわかるようになるよね。